2024ゴールデンウィーク!小布施1日旅|晩年の北斎作品を楽しみに行ってきました

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昨年(2023年)の今頃、太田記念美術館で”江戸にゃんこ 浮世絵ネコづくし展”に行ってからというもの、浮世絵や日本絵画に関心を持つようになりました。気になる展示会を見つけては足を運び、関連本やネットから情報を集めては日本絵画の歴史をなぞり、漫画や出版へ繋がる道のりを想像する楽しみが出来ました。

さて、お出かけ先選定は夫のNOBU担当です。今年のゴールデンウィーク予定を聞いてみると「長野の小布施にある北斎館に行きましょう」と返ってきました。

日程:(徒歩を移動手段とするので)天気が良さそうな29日、小布施までは片道3時間半程度なので7時出発、18時戻りと決めました。我が家では猫を飼っているのでよほどのことがない限りはお出かけは日帰りなのです。

小布施での観光予定地:駅から歩いて回れる範囲に結構あるようなのですが、①岩松院 ②北斎館 ③高井鴻山記念館の3ヶ所を柱として、あとどの程度回れるかはその日次第、と緩い計画にしておきます。

当サイト関連記事はこちらからどうぞ→ 浮世絵 

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小布施|北斎館へ

JR東京駅からJR北陸新幹線に乗り2時間弱で長野駅に到着。そこから長野電鉄長野線に乗り換え、40分ほど長野の景色を楽しめば小布施に到着です。

長野電鉄小布施駅周辺にはのんびり空間が広がっています。電車から降りた時は観光客の姿も結構見受けたのですが、広々とした景色に三々午後溶け込み、辺りを自分たちだけで独占しているような不思議な気分になりました。

岩松院への散歩道

現地での詳細地図が欲しかったので、駅近くの観光案内所に立ち寄りました。観光案内所に入るとスタッフが何人もいます。(ローカルな場所では1、2名というところが多いのでスタッフの多さからは観光に力を注いでいる様子が伝わりました)海外の方に英語で案内する様子を目の端で捉えながら、地図をもらいついでに岩松院までの所要時間を尋ねると30分程度とのことなので、予定している行き先で一番遠い岩松院から行く事にしました。

この日は結構暑かったので「周遊バスを使えば良かった」と途中後悔したのですが、初めて歩く知らない土地の魅力にやられ、あっちキョロキョロこっちをよそ見、写真を撮ったり妄想を語ったり(笑)するうち目的地に着くまで1時間程度かかってしまいました。

これから〜夏にお出かけを予定している方へ:小布施駅から岩松院までは、脇目を振らずひたすら歩を進めても30分以上かかると思われまれます。道々日陰も少ないので周遊バスなど検討しても良いかもしれません。

▼畑の一角で見つけたお散歩art|勝手にタイトル|ひっくり返ったワニ

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小布施到着は午前10時くらいでしたが、季節を前倒した強めの日差しが降り注ぎ、高い建物がないので空も大きく感じます。駅から観音通りを通って行く岩松院への散歩道中、印象に残ったのは通りに設置されていた”物語ボックス(小布施町に伝わる昔話を紙芝居風にし、町内10カ所にボックスとして設置)”と”投句箱”です。帰宅後、記事の編集のため小布施のホームページを訪問して見たところ、「”北斎と栗と花のまち”小布施」とキャッチフレーズをつけて郷土イメージを盛り上げる工夫をしてるのだなあと思いました。

迷子にならないように気をつけながら(nobuナビにお任せし😺)、観音通りの一本奥の道を歩くと飾らない小布施に出会えました。栗の木が道端に何気に植えてあり地面には栗の実が中身が入ったままこんもりと積もっています。多分収穫季になってもどの家でも沢山あるので道端の栗の実にまで手が回らないのでしょう。ワタシ的には勿体無い、と思ってしまうのですが・・(笑)。歩く道の端からはドウドウと水の流れる音が聞こえます。田畑への水路だと思うのですが、その音からも水量の多さと自然の豊かさを感じました。

岩松院に到着

岩松院は葛飾北斎・福島正則・小林一茶ゆかりの古いお寺です。本堂の大間天井絵「八方睨み絵鳳凰図」の作者が葛飾北斎ということに興味を惹かれたので小布施に行った際には必ず行きたいと思っていたのです。この時点では葛飾北斎は浮世絵作家としてしか認識していなかったので、浮世絵作家がお寺の天井画を描くに至った経緯を知りたかったし本物をこの目で見たかったのです。

暑さに少々ばてながら岩松院に到着し本堂に向かうと手前の広場では連休中のイベントなのか、おでんや焼き鳥などが売られていてミニ縁日が展開されていました。一角には「振る舞い酒」のコーナーがあり、「ご自由にどうぞ」と魅力的なお誘い文句が書かれています。まだまだ回りたいところがあるので(何ならまだどこも見ていない)フラ〜と手を伸ばしたい気持ちをグッと堪え本堂に上がります。中では御住職が「八方睨み絵鳳凰図」について説法中だったのでお寺の周囲を散策しながら福島正則”霊廟”や小林一茶”蛙合戦の池”を回りながら終わるのを待つ事にしました。

▼福島正則・小林一茶について(小布施町ホームページ)

見どころ | 【公式】信州おぶせ梅洞山 岩松院

本堂に戻ると次の説法までの小休止時間になったので、いそいそと中まで進み天井絵を拝観します。天井絵「八方睨み絵鳳凰図」は葛飾北斎が80歳を超えて制作した最晩年の作品だそうですが、見上げればエネルギーを蓄えた鳳凰が力強く睥睨しています。絵を描くには集中力や体力を必要とするので年をとっての大きな作品制作は通常大変なものなので、画力・想像力・デザインの気迫あふれるパワーに感動するとともに、晩年だったはずの北斎がどのように制作したのか気になり、その過程が詳しく書かれている冊子を買う事にしました。

岩松院購入の冊子(岩松院本堂天井絵「鳳凰図」の制作過程と作者 葛飾北斎 山内章 執筆)によると「八方睨み絵鳳凰図」は天井に直に描いたわけではなく、床上で12分割して描き天井に取り付けられたとのことです。制作は北斎一人ではなく、下絵を葛飾北斎が描き北斎陣頭指揮のもとチーム北斎として複数人で制作したとありました。つまり北斎はプロジェクトリーダーとして指揮をとりつつ自らも描いたということでしょうか。

現在では、「鳳凰図」は北斎が描いたと認識されていますが、昭和49年に哲学者・日本美術史学者で日本浮世絵協会理事の由良哲次氏が葛飾北斎の真筆と研究発表する以前は高井鴻山の絵とされていたとのことです。

 梅洞山岩松院は、 文明四年(1472年)開創、不琢玄珪禅師が開山された曹洞宗寺院です。 現在の岩松院本堂は天保二年(1831年に再建の棟上げが行われ、 高井鴻山は世話人として再建工事にあたりました。・・・・

 ・・・本堂は戦時中に疎開学童が寝泊まりし、 戦後も近隣の人々が集う場所で、多くの方が天井絵を拝観されました。 当山が高井家の菩提寺であり、小布施にとって鴻山は北斎よりも著名であったことから、天井絵は高井鴻山が描いたと認識されてきました・・・・

 ・・・しかし、昭和四十年代後半頃、哲学者・日本美術史学者で日本浮世絵協会理事の由良哲次氏が天井絵鳳凰図に着目し北斎研究に取り組まれ、昭和四十九年に「天井絵鳳凰図は葛飾北斎の真筆である」と研究発表されました。 以来、北斎真筆の天井絵として参拝者にご覧いただいて参りました。

引用:岩松院本堂天井絵「鳳凰図」の制作過程と作者 葛飾北斎(序文より抜粋)

▼岩松院購入の冊子

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小布施の北斎館|企画展について

岩松院を後にし次の目的地を選ぶ際、”北斎館”にまっしぐらに向かうことしました。岩松院の「八方睨み絵鳳凰図」に刺激を受け、小布施で描いた北斎作品に早く出会いたかった為です。そして暑かったのでここからは周遊バスを利用する事にしました。

小布施の北斎館では”北斎と感情”という企画展が開催されていていました。この展示会で興味深かったのはコーナーを北斎の画号期で分けていたことです。

葛飾北斎|画号

春朗期 19〜34歳|浮世絵師勝川春章に入門し画家デビュー、浮世絵師として役者絵、浮絵(透視図法を取り入れた)。

宗理期 35〜44歳|勝川派を出て職人画工や大和絵作家と交流する。また俵屋宗理の画号を襲名し宗理風と呼ばれる細面でしなやかな肢体の美人を生み出す。銅版画を木版で試みる洋風景版画を取り組む。

葛飾北斎期 45〜50歳|滝沢馬琴との競作で読本(中国の伝奇小説の影響を受け怪奇性を押し出した物語)挿絵に力を注ぐ。また肉筆画、半身磨制作のパフォーマンスに取り組んだ。

戴斗期|51〜60歳|コンパスと定規で描く画法で絵手本の出版に力をいれる。”北斎漫画”、”春画”、”絵地図”はこの頃の作品。

為一期|61〜74歳|見世物絵、絹本浮世絵、日本風俗図、櫛・煙管のデザイン、富嶽三十六景、花鳥画などに取り組んだ。

画狂老人卍期|75〜90歳|富嶽百景(北斎富士の集大成)、日新除魔(肉筆画)、高井鴻山の依頼で小布施で制作(祭屋台天井絵、岩松院本堂天井絵)、唐土名所之絵(鳥瞰図の手法で中国全土を描いたもの)、雪中虎図

”北斎と感情”という企画名称へのつながりは読み取り難かったのですが、画号期でまとめてあったことで画家北斎の歩みを時代背景とともにリアルに想像することができました。

小布施の北斎館ギャラリー

小布施の北斎館では、画狂老人卍期|75〜90歳の作品を楽しむことができました。今まで見た北斎作品は浮世絵の版画が多かったのですが(浮世絵には肉筆画もあります)ここでは晩年の肉筆画を数多く見る事ができました。

葛飾北斎についてのmarisan考察

最近まで、ワタシは”葛飾北斎”=浮世絵作家なのだと思っていましたが、日本の絵画史を辿るうちに、「葛飾北斎=浮世絵作家」だけでは、かなり大雑把に纏めた称号だと考えるようになりました。なぜなら葛飾北斎の画業活動は風俗を描くだけではなく、絵手本・北斎漫画を生み出し、櫛や煙管のデザインを手掛け、寺の天井画を作成するなど幅広いものだったからです。

「浮世絵」(うきよえ)とは、江戸時代から大正時代に掛けて描かれた、風俗を描いた絵画のことです。この世は「憂き世」で嫌なことばかり。それならば、ウキウキと浮かれて楽しく、この世を謳歌して暮らしたいと「浮世」の字が当てられた浮世絵が描かれるようになりました。

刀剣ワールド

”北斎”の画業を辿れば辿るほど、その魅力の虜になりました。

絵を熱心に学びデッサン力が優れていて色彩感覚も良い”北斎”は、浮世絵界にデビューするやメキメキと台頭します。師の勝川春章が没した後は勝川派を離れ、職人画工や大和絵を学び絶え間なく自己研鑽に励みます。 その後は”絵が上手い”だけではなく、豊かな想像力とデザイン力で、あらゆるモチーフを多様な手法で描き、水滸伝など読物の挿絵では”音”をも効果線で表現する現代マンガの礎を作りました。 ”北斎漫画”は絵手本集ですから現代マンガとは違うものですが、言ってみれば著作権フリーのイラスト集を作ったわけです。 著作権はフリーですが増刷を重ねることで十分な収益を叩き出せる売れっ子作家だったのでしょう。(北斎自体は常に貧乏でした。詳しくは右幻冬社サイト▶︎北斎のギャラは3000~6000円だった)何より驚くのは、画狂老人卍期(75〜90歳)の画業です。富嶽三十六景では飽き足りず富嶽百景を描く執念、そして73歳からが画業本番だ!というようなことを述べているのです。

北斎は、富嶽百景の跋文(後書き)で、こう述べています。

「私は6歳より物の形状を写し取る癖があり、50歳から数々の画図を描いてきた。とは言っても、70歳までに描いた物は本当に取るに足らない物だ。73歳になって、少し動植物の骨格や生まれと造りを知ることができた。ゆえに、86歳になればますます腕が上達し、90歳には奥義を究め、100歳には本当に神妙の域に達するであろうか。100歳を超えれば、私が描く一点はひとつの命を得たかのように生きた物になるだろう。このような私の言葉が世迷い言などではないことを、長寿の神には、ご覧頂きたく願いたいものだ。」

刀剣ワールド

葛飾北斎・西洋絵画との比較

葛飾北斎(1760年生ー1849年没|江戸時代後期活躍)は、現代の職業に例えれば、画家+イラストレーター+デザイナー+漫画の礎を作ったアーチストと言えるのですが…

江戸時代では、北斎の職業は版下絵を描く絵師を主とする職人でした。 北斎を職人だという振り分けは現代では考えられませんが、当時は「アーチスト」もしくは「芸術家」などの概念が日本にはなかったので「すご腕の職人」という認識だったと考えられます。

ここでふと同年代を生きた西洋のアーチストたちを思い浮かべます。海を渡った浮世絵がジャポニズムとして西洋画壇に影響を与えたことは有名です。一方、北斎も西洋画を学んだとのことなので同時期の西洋絵画を並べてみたくなったので下記にリンクしてみました。

▼19世紀の西洋絵画(1800年代)|Google画像検索ですが画像を並べてみることで何をモチーフにどのように描かれているのか見渡す事ができます。

キーワード:"19世紀 を全て含む" 美術・絵画などのアート作品ならアフロ | 写真素材・ストックフォトのアフロ
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▼ジャポニズムについて(刀剣ワールド)|西洋における日本絵画の影響をわかりやすく解説されています。

浮世絵師「葛飾北斎」の生涯
葛飾北斎と言えば、江戸時代を代表する浮世絵師。日本国内のみならず世界でも高評価を受け、「ジャポニズム」という現象まで巻き起こしました。そんな天才と呼ばれた葛飾北斎について、その生涯や作品についてなど、様々なエピソードをご紹介します。

▼北斎 西洋画|Google画像検索です。北斎が描いた西洋画風の作品を見る事ができます。

北斎 西洋画 - Google 検索

西洋と日本は遠く離れていますが、アナログな時代であっても同じ時代を生きているなら、交流し刺激を与え合う事ができるのだなあと感慨深い気持ちです。

高井鴻山記念館

北斎館を見た後は高井鴻山記念館へと向かいました。岩松院・北斎館を訪れ、小布施の地と北斎を結んだ高井鴻山について調べたくなったのです。

天保の改革・倹約令で「画材も手に入らない・絵も描けない・命さえ…」と路頭に迷いそうだった83歳の北斎は、かつて江戸で出会い意気投合した豪商”高井鴻山”を頼り小布施に足を運びました。快く客人として迎え入れた高井鴻山は北斎から絵を学びました。その後90歳までの間、何度か小布施を訪れ三代傑作の天井図「龍図・鳳凰図」「怒涛図」「八方睨みの鳳凰図」を完成させました。ー鴻山と北斎〜江戸からの風〜パンフレットより抜粋ー

▼高井鴻山記念館

髙井鴻山記念館 | 小布施日和|小布施文化観光協会の公式サイト
鴻山がそして北斎が、あたかもそこに居るように、静かな空間が残されている 豪商でありながら画家、書家、思想家、文人として江戸末期一級の文化人であった高井鴻山に関する資料が集積・展示されています。 おびた

高井鴻山記念館には、豪商でありながら文化人であったという高井鴻山に関する資料や北斎から指導を受けた作品などが展示されていました。

小布施1日旅|晩年の北斎作品を楽しみに行ってきた感想

小布施1日旅は、晩年の北斎が執念を持って取り組んだ画業を辿り、高井鴻山との絆を感じた旅でした。

浮世絵展示会があれば必ずと言って良いほどラインナップに組み込まれている葛飾北斎作品には触れる機会は多々ありました。その都度「上手いよね」とか「すごいなあ」「これ好きだな」など通り過ぎるように鑑賞していました。両国にあるすみだ北斎美術館に出向いた際にもその意識が大きく変化することはなかったのですが、今回、小布施1日旅、”岩松院” “高井鴻山記念館” “北斎館” を回ることで「北斎が確かに存在していたのだ」と感じる事ができました。最晩年の作品に触れたことで今までの情報が纏り、葛飾北斎の人生を辿ったようで感動的な心持ちです。

19歳から画業に励み江戸浮世絵界で活躍していた北斎ですが、晩年期の北斎にとって、江戸は生きにくい場所となったため、高井鴻山を頼って小布施に行ったのです。「ものすごく活躍したのに晩年、隠居しようと考えなかったのかな」と不思議に思いましたが、調べれば”収入は恵まれているほうでも金銭にルーズなことなどが災いし常にお金に困っていた”とあり、江戸での仕事が少ないと食べることさえ困り隠居すらできなかったのでしょうか。ファンとしての期待を込めた想像を展開すれば、何歳になっても絵を描くことに貪欲だった北斎は存分に描きたくて支援してくれそうな高井鴻山の元を訪ねたのだろうと思いを巡らせました。

そして60歳を過ぎ少し気弱になっていた自分自身を振り返り、天才の迫力に気圧されてしまった小さな自分を励まします。「70歳までに描いた物は本当に取るに足らない物だ」という北斎の文言を「70歳まではまだ時間ある!心だけでも貪欲に!目指すは元気に長生だ」とmarisan AIにて都合よく変換し北斎の果てない探究心と生きる力にあやかりたいと思うのでした。

長い記事となりましたが、2024ゴールデンウィーク!小布施1日旅|晩年の北斎作品を楽しみに行ってきた感想は以上です。

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