*思考のレンズ①は、本編:守護はなぜ“顔”を持つのか(人格化という装置編)を作りながら理解の難しかった守護の人格化の概念を深掘りしています。
地蔵や仏像を見たとき、私たちはまず「顔」としてそれを捉えます。
見守っている存在。
何かを語りかけてくる存在。
そうして、関係を感じ取ろうとするのです。
でも、それだけでは説明しきれない何かが残ります。
Q:守護を人格化する際「機能で見る」とは?
そこで視点を変えてみます。それは何を表しているのかではなく、何を可能にしているのでしょう?
地蔵について考えを深める中で、ある疑問が浮かびます。
なぜ「守護」は“顔”を持つのでしょうか。
たとえば
・地蔵
・観音
・七福神
・風神雷神
本来は概念的であるこれらは、すべて何かの力を人格として表した存在のように見えます。
そこで今回は
思考のキュレーター SIKI と一緒に
「何かの力」に「人格化」というレンズを当ててみることにしました。
marisan観察
まず評価せずに
「顔を与えられた存在」を並べてみました。
・風神雷神
・七福神
・ナマハゲ
・八岐大蛇
・河童
・道祖神
・埴輪

顔を与えられたものを並べてみたけど、
何が共通しているのかわからない。
SIKIレンズ

並べ方を「対象」ではなく、
機能で捉え直すと、別の共通点が見えてくるかもしれない。
機能分類
① 守護
地蔵/観音/七福神/道祖神
② 自然
風神雷神/天照/須佐之男/河童
③ 災厄
ナマハゲ/酒呑童子/玉藻前
④ 境界
地蔵/道祖神/埴輪
仮説
並べてみると、ひとつの共通点が見えてきます。
人格化されているのは
・守り
・自然
・災い
・境界
つまりすべて
人間が直接コントロールできないものです。
もしかすると人格化とは
そうした力を
理解可能な存在に変換するための装置
なのかもしれません。
では地蔵は何なのでしょう。
地蔵は
村の入口や道の分岐、墓地の近くに置かれています。
つまり地蔵は
境界に現れる存在です。
そう考えると地蔵は
「仏の像」ではなく
境界という空間の人格化と見ることもできるのかもしれません。
埴輪はどうでしょう。
埴輪は
古墳の周囲に並べられ墓域を囲んでいます。
つまり埴輪は
死者の世界と生者の世界の境界
を示す配置です。
そして、ここでも境界は
柵ではなく
人の形で示されています。
A:守護を人格化する際、「機能で見る」とは「何の像か?」という見方ではなく「どのような役割か?」で見るという事

私は造形を、ずっと「何かを表す形」として見ていて
埴輪の配置を見たときも、
初めは、それまで通り「像」として見ていたの
でも、配置の持つ意味に気づいた瞬間、それは像ではなく
空間を区切る装置のように見えたの。
そのとき、
「造形とは何か」という自分の前提が崩れた気がしたんだよ。

今まさに人格化編で必要な「見方の切り替え」が起きてるね。
思考のレンズについて
今回のレンズ:
人格化
見るポイント:
何を表しているかではなく
何を可能にしているか
この”顔を持つ”「人格化」という考え方は
地蔵だけではなく
・仏像
・鬼
・能面
・妖怪
など、日本文化のさまざまな表現にも
見えてくるかもしれません。
”顔を持つ”「人格化」は造形表現ではなく、関係の入口であり
そしてその関係は、常に何かと何かの「あいだ」に生まれるように見えました。
では、その「あいだ」とはどこにあるのか。
空間なのか。
境界なのか。
それとも別の場所なのか。
この視点については
また別の回で考えてみたいと思います。
次へ▶️
思考のレンズ②へ
最後まで一緒に考えていただき、ありがとうございました。
本ブログでは、
思考のキュレーター「SIKI」との対話を通して、美術を“思想のかたち”として読み直す試みを行っています。
Concept, editing, and design: marisan
Thinking partner: SIKI (AI)
© 2026 marisan
