はじめに
現代日本美術については、ずっと書けずにいました。
正確には、「書こうと思えば書けた」のだと思います。
展示を見て、作家名を並べて、感想を添えることはできました。
それでも、このカテゴリーの「考えてみた」を空欄のままにしてきたのは、
現代日本美術が、どうにも一言で言い切れないからでした。
それは難解だからでも、興味がないからでもありません。
むしろ、日本美術史をたどってきた今、
どこに立っているのかを簡単に定義してしまうことに、ためらいがあったのです。
なぜ言葉にしづらいのか
では、なぜ私は言葉にしづらいと感じたのでしょう。それには以下のようなことが関係あるようです。
- 時代がまだ動いていること
- 評価軸が市場・国際展・キュレーターに偏りがちなこと
- 日本美術史(信仰・工芸・共同体)との接続が見えにくいこと
海外作家は「見える」のに、日本は見えにくい
以前、「資本主義リアリズム」と呼ばれる運動を展開した現代アートの巨匠ゲバルト・リヒター展に行ったことがあります。
とても良い展示会だったこともあり「アブストラクト・アート」の表現が腑に落ちた、ワタシにとっての数少ない体験となりました。
「腑に落ちる表現」に出会うことが、日本現代美術作品ではあまり無いため、「日本」というカテゴリーの中で記事をまとめにくいと感じたことも言葉にしづらかった要因の一つかもしれません。
それでも、考えたい理由
それでも、日本現代美術について考えてみたいと思います。それは日本美術について、ワタシなりにこのブログで纏めて来た事で以下のことが感じられるようになったからです。
- 日本美術は「編集」され続けてきた文化であること
- 現代は、その編集権が分散・不在になっている可能性
- だからこそ、今あらためて考える価値がある
ここからのスタンス(未完成宣言)
このブログでは、
現代日本美術を「評価」する前に、
考えながら歩く場所として、このカテゴリーを使っていきたいと思います。答えを出すよりも、
立ち止まった理由や、迷った感覚を記録します。それが、いまの私にできる
現代日本美術との向き合い方だと思っています。
ご訪問ありがとうございます。
